会 長 の 言 葉








広島大学ゲーム制作同好会
  ―――― Game Software Development club ――――



ゲームとは一体何だろう。
辞書には「遊び, 娯楽, 遊戯;楽しい出来事」とあります。

そう、ゲームは娯楽なのです。
ヒトは本質的に娯楽を求めます。
それは生存本能といっても良いでしょう。
なぜならヒトは思考を持っているからです。
思考を持っているが故に、ヒトは未来を知ることが出来、
そして悩まなければならない宿命を負います。
その宿命は人には余りに重く、余りに酷く……
そしてヒトは娯楽を求めます。
宿命から逃れ、宿命を見据え、宿命を知るために。

それでは娯楽とは何でしょう。
同じく、辞書には「笑い楽しむ事」と記されています。
しかしながら楽しみ方は規定されてはいません。
楽しみ方は人それぞれです。

ゲームシナリオのセオリーとして、ハッピーエンドでなければならないというものがあります。
それはゲームが娯楽だから。
未来を知る宿命において、それはハッピーエンドでありたいと願うから。
それがヒトとして、生けるものとして、存在を望むということです。
だが、かつての小説がハッピーエンドのみであったでしょうか。
かつての劇がハッピーエンドだけしか無かったでしょうか。
そして、私達の周りはハッピーエンドだけでしょうか。
そんな筈は有りません。
そう、答えはハッピーエンドにのみ在り得る物ではないのです。

最初は小説や劇もハッピーエンドだけだったかもしれません。
絵画や音楽も楽しみや喜びを表現した物だけだったかもしれません。
しかしそれだけではなくなった。
ヒトに与えられた物はそれらだけではなかったからです。
しかしながら私達は悲劇や悲しみの歌や苦悩の絵をも娯楽として享受します。
それは笑い楽しむ物ではありません。
が、私達はそこに自分との同一化を見出すからです。
それを私達は芸術と呼びます。
そしてゲームも芸術であっていいはずです。

私達は答えを知ることが出来ません。
それは私達が世界を知る事が出来ないからです。
世界は構築されているのに、私達は世界を知る術を持たない。
ではどうするのか?
私達は世界を自分たちの中に形作るのです。
自分の中に世界を新しく構築する。
それが生きるということです。
そうして私達は世界を、答えを推測します。

それは当然、各人が隔離されるということでもあります。
人々は自分の世界しか持ち得ないのだから。
だから我々はゲームを創る。
更に小さな世界を、作り上げる。
私達はそれに同調し、小さな世界を、宿命を、垣間見る。
それは答えでは無いでしょう。
無価値であるかもしれないし、毒であるかもしれない。
だがそれは各人を繋ぐ為に在るのです。

ゲームは、絵画や小説などと同じく、それだけでは未完成です。
なぜならば、そこには見る人、読む人、プレイする人間がいるからです。
すなわち享受する人間がいなければそれらはただのモノでしかありません。
受ける人間がいて初めて、それらは意味を成すのです。
これらは各々の小さな世界を構築しています。
しかしながら、それらは非常に微弱で些細なものです。
それを各人が受け、増幅し、理解する事で、その小さな世界は繋がる事が出来ます。
断絶した世界を繋ぎ、共有する。
そしてそれは答えを見つけるための糧となれば幸いです。


「故に我々は創り続ける。
この小さな世界を。
見つかるはずの無い答えを求めて。

そして捧げよう

安寧の降り注ぐ世界に!」




広島大学ゲーム制作同好会 第12代会長 e.o.



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